著者:アリス・ウォーカー(柳沢由実子訳) 出版社:集英社 出版年:1990年

“エクスタシーは未開の森、焼きたてのパンの香り”

アリス・ウォーカーの『我が愛しきものの神殿』(The Temple of My Familiar)は、人種、性別、歴史、自然、精神性といった多様なテーマを、壮大なスケールで描いた長編小説である。英題にある familiar は「親しきもの」という意味をもつ一方、中世イギリスでは魔法使いの意思を伝えるために使われた小動物を指す言葉でもある。その二重の意味を知ると、本作で人間と動物、過去と現在、生者と死者が境界なく結びついていく世界観が、題名の時点ですでに示されていることに気づく。

物語は複数の登場人物の”語り”方式で進行していく。現実と神話、過去と現在、個人の記憶と民族の歴史が自在に交差する構成は決して読みやすいとは言えない。しかし、その複雑さは「歴史とは誰か一人の物語ではなく、多くの声が重なり合ってできている」という作品の思想そのものを表しているように感じる。

作者アリス・ウォーカーは1944年、アメリカ南部ジョージア州に生まれた。1960年代には公民権運動に参加し、人種差別撤廃のための活動を続けた経験をもつ。黒人であり、女性でもあるという二重の抑圧を経験した彼女の人生は、本作の根底に流れる思想を形づくっている。歴史の中で声を奪われてきた人々に寄り添い、その記憶を文学として語り直そうとする姿勢は、この作品にも強く表れている。

ウォーカーはフェミニズムを代表する作家として知られているが、自身は「ウーマニズム(Womanism)」という概念を提唱した。これは白人中産階級女性を中心として発展したフェミニズムでは十分に語られなかった黒人女性の経験を出発点としながら、男性との協働や共同体、さらには自然との共生までを含めた思想である。本作の女性たちは単なる抑圧の被害者ではなく、歴史や記憶を語り継ぐ存在として描かれている。彼女たちの語りは、男性中心の歴史から排除されてきた声を回復する営みであり、ウォーカーのウーマニズムを象徴している。

同時に、本作はポストコロニアル文学として読むこともできる。植民地主義や奴隷制によって断絶された歴史を、支配者ではなく語る者の視点から描き直しているからである。作中では、人種や民族という枠組みさえ相対化され、人間がまだ自然の一部として生きていた時代まで物語はさかのぼる。人種や性別は絶対的な境界ではなく、歴史の中で作られたものであり、それらを超えて生命は本来つながっているという思想が貫かれている。

私が特に好きな場面、少々長いが、ウォーカーの豊かな文を感じて頂けたらと思う。

“「間違ってはいけない」とオーラは言った。「人民自身が、真に永遠の問題との戦いに参加しなければならないんだ。だからこそ、レジスタンスの運動は貴重なのだよ」彼とファニーはバルコニーに坐って、朝食をとっていた。パパイヤジュース、果物、コーヒー、バターを塗ったトースト、それにジャムが何種類かあった。オーラは食べているとき、いちばんいいアイディアが浮かぶらしい、と彼女は思った。「気候風土の悪いところで、どこか田舎の隠れた穴(すくなくともきみは望んでいる)で、草のスコーンと蜥蜴の紅茶を飲んで、肌は蚊にさされてぐちゃぐちゃになり、靴は湿気のためにぼろぼろだ。それでも、きみは実に幸福だということもある。なぜなら、みんながきみと同じ問題を抱えているからさ。違ったとしても、少しの違いだ。ゲリラ闘士は戦う以外に、何をしている時間がいちばん多いと思う?小競り合いとか戦闘は、そんなに時間がかからないものさ。話をしてるんだ。」オーラはスプーンで一口、果物を食べる時間だけ黙った。「話すこと」と彼は急いで飲み込んでから言った。「それはまさに解放への鍵、人の舌は自由への道を切り拓く大きな鉈だ。ある人は話すことを創造したのは、われわれ人間だけだと言う。でも、それは人間がほかの動物と比べて、知性が劣っていて、他者との関係で手のつけられないような愚かなことをする傾向があるからだよ。だから話が必要なんだ。」”

『我が愛しきものの神殿』は幻想文学でありながら、その幻想は決して現実逃避ではない。一見異なる壮大なテーマを、時空を超えた物語として結びつけ、現代社会を見つめ直すための視点を与えてくれる。ウォーカー自身の経験と思想というフィルターを通すことで、神話や輪廻、生き物たちの記憶といった幻想的な要素が、かえって現実以上のリアリティを帯びて立ち現れるのである。

読み終えたあとに残るのは、人間は人種や性別によって分断される以前に、自然の一部として生きる存在であり、過去から現在、そして未来へと連なる大きな生命の循環の中にいるという感覚だった。本作は、フェミニズムやポストコロニアルという枠組みだけでは語り尽くせない、人間の尊厳と生命のつながりを描いた作品である。そして、語ること、耳を傾けることこそが歴史を再生し、他者と共に生きるための第一歩なのだと教えてくれる一冊だった。

書き手:菊池

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