著者:春日武彦 出版社:中央公論新社 出版年:2023年
紙で指を切るのが嫌いだ。紙の端が皮膚に入り込み、スパッと切れることなく薄い皮をざっくりと切り裂いていく。傷そのものは大したことはなく、血がほとんど出ないこともある。しかし、大抵こういう場合の方が治りは遅く、ジクジクと痛むのだ。さらに、端が整えられていない紙ならば、想像するだけでもっと惨たらしい。皮膚は複雑にめくれ、肉までえぐられることで、いつまでも傷が塞がらないような気がしてくる。そんな想像をした瞬間、ゾワッと全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。
無論、実際にはそんなことは起きていない。しかし、それでも傷ひとつない指を見ているだけで、思わず手を引っ込めたくなるこの感覚はなんなのだろうか。恐怖は、目の前でその現象が起こっていない時でも生まれてしまうものらしい。つまり、頭の中だけでも恐怖は十分に育ち、やがて身体に影響を及ぼすのだ。考えてみれば、「怖い」という感覚そのものが不思議なものである。何が怖いのかと聞かれても「怖いものは怖い」としか答えられないし、同じものを見ても、何とも思わない人もいれば、強い恐怖を感じる人もいるだろう。では一体、我々は何を怖がっているのだろうか。
本書は「怖い」という感覚そのものを多角的な視点から捉え直し、考察した一冊である。精神科医である著者は、高所や閉所といった身近な恐怖から、先端、集合体、人形やピエロへの恐怖まで、それぞれの「怖さ」がどこから生まれるのかを探っていく。例えば、我々は普段は何とも思わないはずのものに恐怖を覚えることがある。当たり前に安全を確保された床に立っていながら、高所から落下してしまいそうで突然足元が信用できなくなる感覚。自分の皮膚の表面にある小さな凹凸が、まるで異物に覆われているかのように見える不気味さ。ただの鉛筆の先端が、自分の目を貫いて傷つけてしまいそうな存在に思えてくる恐怖。いずれも、本来ならば恐れるに値しないものばかりでありながら、起こらないはずの危険を想像しただけで、恐怖を錯覚してしまう。本書の面白さは、我々がこれまで漠然と胸の内に秘めていた恐怖の原因や、言葉にならなかった「怖い」という感覚を、文字という媒体に落とし込んでいくところにある。
ここでひとつ、人形に対する恐怖について考えてみたい。私は、人は無意識のうちに、外部の他者に自分の居場所を奪われることへの恐怖を抱えているのではないかと思うことがある。人形は人間の姿をしているが、人間ではない。こちらをニコニコと見つめているだけなのに、その笑顔の裏には、自分の居場所を奪おうと機会をうかがっているような不穏さを感じ取ってしまう。考えてみれば少し妙な話である。自分とそっくりな存在は、自分を最も理解してくれるように思えるのに対し、その「似ている」ということ自体が、どこか怖い。分身、いわゆるドッペルゲンガーは小説やアニメの中でも古くからたびたび登場し、自分と瓜二つの存在に、自分の存在を脅かされる物語が描かれてきた。たしか、『ドラえもん』にもそんな話があったよな、と思う。自分とそっくりなその「もう一人」が、いつか自分に取って代わろうとしている。そんな想像の根底には、自分ではない何かに居場所を奪われることへの深い恐怖が潜んでいるように思えてならないのだ。
あくまで私の解釈に過ぎないが、恐怖症は想像力によって、恐怖そのものはその本能に近いものによって形成されるものなのではないだろうか。つまり、条件さえ整えば、恐怖症でない人間にも同じような反応が起こるかもしれないということである。本書で著者は、これらの恐怖症を「精神のアレルギー」という言葉で表現している。普段は何でもないものでも、ある条件が重なると突然、強い反応が立ち上がるのだ。高所恐怖症ではない人間にとって高い場所は、さほど恐怖の対象にはならない。しかし、条件が変われば、誰でも「落ちる」という可能性に身体が反応することはあるだろう。そう考えると、恐怖症とは、症状を持つ者だけに存在する特殊な回路ではなく、誰もが持つ回路が、ある人には過敏に働いてしまう状態といえるだろう。
紙の傷を想像しただけで手を引っ込めたくなる、あの感覚もきっと同じである。安全だと分かっているからこそ、恐怖は静かに頭の中で育っていく。恐怖とは、私たちを脅かすものというより、私たち自身の中から生まれてくるものなのかもしれない。

書き手:工藤千知









