著者:スーザン・ソンタグ(北條文緒訳) 出版社:みすず書房 出版年:2003年
テレビ、WEB、そして新聞を問わず、現代のニュースには写真と映像が溢れている。写真と映像の登場は人々の視覚にそれまでにない刺激として、その認識に影響を与えているといっても過言ではない。とりわけ紛争、戦争、事件といった衝撃的な写真や映像は人々に物事の深刻さや恐ろしさを伝えるにあたってこれ以上ないメディアとして機能した。写真や映像という目の前のものを「正確に」映し取ることが可能な媒体であることによって、テレビやインターネット、新聞の一面に張り出された事象から人々はことの重大さを知り、立ち尽くす…いや、本当にそうだろうか?
現実を振り返った時、あまりにも多くの刺激に人々は慣れきってしまったように思う。出来事の凄惨さに対する感情の隆起は刹那で、目の前の恐ろしい事象に慄くのも早々に、「目の前の」日常に戻っていってしまう。写真や映像はその正確さ、そして今日ではその手軽さゆえに誰もが情報伝達の手段として使い、それが不幸にも観者に対して通過していく一つのコンテンツにまで降格してしまっていく。
戦争をはじめとする他者の苦痛が写された写真について論じたのがスーザン・ソンタグによる本書だ。ソンタグの代表作『写真論』はロラン・バルト『明るい部屋』と並んで名前が上がるような写真研究における古典である。『他者の苦痛へのまなざし』は『写真論』に対してその続編・姉妹編といった立場とも言えるだろう。本書でソンタグは戦争やテロの写真が蔓延する時代における写真の機能と限界、それでも写真が持ち続ける意味について検討している。
写真は物事のありのままを写しているようで、同時に個々の視点によって成り立っている。写真の多くは自動的に撮られるのではなく、誰かがシャッターを切ること(シャッターボタンを押すこと)によって初めて撮影される。自動的なものであったとしても、「自動にすることを設定した人物」が必ず存在し、どのタイミングでシャッターが切られるべきかという基準を決めている。誰が見てもおおかた同じ光景でも「何を撮るのか」「何を写さないのか」という考えにおいて個々人で必ず差異があり、そこには紛れもなく「撮る意思」というものが存在する。
メディアに氾濫する写真にはいずれも意図があり、写真家の意思や政治的立場のみならず、撮影を依頼したものの意向などが含まれる。戦争やテロを写した写真も例外ではない。撮影されたものをどう見せたいかという意図によって写真は切り取る場所を変え、メディアで報じられる過程で選ばれて放流される。そこに本当があるときもあれば、「本当らしさ」によって成立しているに過ぎない画像もある。
写真を眺め、消費する側はどうだろうか。人の死や危機を写真を通して目撃するとき、人々は自身が「平穏に」生きていくために感情を鈍化させ、情報を選び取っている。飛行機で何時間もかかるような遠くの文化圏の出来事に関心は薄らぎ、まもなく忘れてしまう。己が地獄の渦中に置かれない限り、人はその苦しみを理解しない。だが、感じられないことの苦しみがあることに気がつくきっかけを写真は提示しているのかもしれないのだ。
インターネットの発達と大衆化がさらに進み、ネット上に虐殺や非道な行為の写真が飽和している今日のこの状況をソンタグならどう論じるのだろう。さらに昨今は生成AIの急速な発達に伴い、精巧なフェイク画像も作られるようになった。写真の真正性などという言葉はもはや成立しないのかもしれない。だとすれば写真は何を写すのだろうか。加工が前提とされる写真、誰かと共有することが前提の写真、そしてAIに「食べさせて」別の画像を作ることが前提にとられた写真…画像は恣意的な加工のための媒介になり、1枚の画像にレイヤーやAIプロンプトによって意図や効果が何重にも重ねられる。私は何を撮っているのだろうか。そして人々はそれをいつまで覚えていられるのだろう。いったいどんな写真が私たちの頭の奥まで響いていく力を持っているのだろうか。
最後に本書と関連するような作品について、北海道出身の写真家・現代美術家の鈴木涼子の《Body Letter》シリーズから一部紹介したい。シリーズの一部になっている写真作品では、若いモデルがヌードの状態で漆黒の背景に佇んでおり、その腹部や胸部には一枚の写真が大きいタイルのようにモザイク状になって貼り付けられている。貼られているのはインターネットから探し出したウクライナの市街地とされる場所が爆撃を受けている様子、避難する子どもの不安げな表情、太平洋戦争時に撮影された鈴木の家族の写真などだ。
身体に貼る写真は各々のモデルによって選ばれている。ヌードという観者が見る欲望を前面に押し出す形態に戦争の写真を自らの意思で貼り付けた時、見られることに特化していた身体が見ている私たちに痛切さを以て迫りくるような関係の変容がある。貼り付けた爆撃の画像もまた目撃されるものへと変わるように思われる。ヌードは性的側面をもち、客体化されやすい撮影形態であり、そして戦争という深刻さをもった写真は氾濫ゆえにその衝撃に人々は麻痺してしまっている。鈴木は被写体と協働してヌード、そして戦争のイメージを再構築することで、見ることと消費することのループから脱出するための契機を提供しているのかもしれない。
参照
RYOKO SUZUKI WEBSITE, http://www.ryokobo.com/contents/bodyletter.html
鈴木涼子 Body Letter | CAI03 | CAI現代芸術研究所 | 札幌・現代アートギャラリー | CAI contemporary art institute, https://cai-net.jp/exhibition/鈴木涼子%E3%80%80body-letter/
鈴木涼子《Body Letter》の実践 −美術を介した「記憶」の継承は可能かー/田村允英 │ Hokkaido Art Forum, http://hokkaido-art-society.net/newartforum/2024/02/04/post-2238/
フェミニスト的実践から踏み出した新たな一歩。山本浩貴評「鈴木涼子 Body Letter」展|美術手帖, https://bijutsutecho.com/magazine/review/28148
(最終閲覧日 2026/06/18)

書き手:上村麻里恵









