著者:中島敦 出版社:筑摩書房 出版年:1993年

中島敦と聞くと、「山月記」そして中学や高校の頃の国語の授業を思い出す。そのときの印象は、主人公の男が詩人になって食っていこうとするけれどうまくいかず、結局虎になってしまうという物語の筋と、普段読んでいる文章とは異なる、漢文調で、はっきり言えば読みにくい文体、あとは「その声は、我が友、李徴子ではないか?」という台詞くらい。少なくとも、僕にとってはそういう作品だった。

「山月記」に限らず、どうしても国語の授業で読んだ作品というのは、「国語の教材」という堅苦しい印象が抜けない。学校生活が好きではなかった僕にとってはなおさらで、「虎になったからなんなんだ、調子に乗るな李徴」くらいにしか思えなかった。

しかし改めて彼の作品に触れてみると、あのとき感じた、作品に対する退屈さは少しも呼び起こされなかった。むしろ、「この時代にこんな新しいことをしていた人がいたのか」という再発見の気持ちの方が強い。至極当然のことではあるが、中島敦は現代の国語教育の中で、ないがしろにされがちな漢文教育を推し進めるために「山月記」を書いたわけではないのだ、と改めて気づかされる。

そもそも「山月記」は「古譚」という四つの短編からなる短編集の一編である。他の三作品は「狐憑」「木乃伊」「文字禍」。「山月記」を含め、どれも十ページほどしかない非常に短い作品だ。しかし、それぞれの密度は驚くほど高い。むしろ、どうしてこれで百ページ書かなかったのかと思ってしまうくらい重たい。

そして僕は、この四つの作品に一つの共通項を見いだした。それは、言葉や意識、記憶など、普段あまりにも当たり前に存在し、使われ続けているものに対する疑念である。「狐憑」は、ある日から突然取り憑かれたように言葉を吐くようになった男の話。「木乃伊」は、墓で見つけたミイラに対して、それが自分なのだと確信する男の話。「文字禍」は、「文字の精」という妖精に翻弄される男の話。そして「山月記」は、詩人になるためにエリートコースを踏み外すどころか、虎になってしまった男の話。そのどれもが、意識や記憶、文字やアイデンティティを喪失していく物語なのである。とりわけ「狐憑」「山月記」「文字渦」は、物語や言葉、文字によって人生そのものがねじ曲げられていく話だ。そんな作品が、長年にわたって国語教育の教材として扱われ続けているというのは、少し滑稽ですらある。

よくよく考えれば、中島敦は一九〇九年生まれで、太宰治と同い年である。彼が活躍した一九三〇年代から四〇年代前半といえば、戦争が激化する一方で、いわゆる文豪たちが数多く活躍した時代でもあった。その中で、これほど言葉そのものへの疑念をはっきりと表した作家は、案外珍しいように思う。

国語教育や教科書、そしてそこに掲載されている彼の風貌から受ける「いかにも先生が勧めそうな文豪」という印象ゆえに、彼は日本文学の王道のように見えてしまう。しかし実際には、こうしたモチーフの扱い方や、積極的に海外、それもエジプトや彼が赴任したパラオなど、日本文学ではあまり舞台にならない土地を作品へ取り込んだという点でも、非常に異色の存在だったのではないだろうか。ちなみに本書にはその他にも『ジキルとハイド』を執筆したスティーブンソンについて書き、芥川賞の候補にもなった「光と風と夢」が収録されている。「古譚」を読んで、興味深いと思ってくれたら読んでもらいたい。

さて、今回の執筆にあたり、改めて「山月記」を読み直してみた。当たり前だが漢字ばかりの文章で、読み進めるのも一苦労だが、そのうちに、かつて授業内でこの作品を音読していたことを思い出した。試しに一度声に出して読んでみると、不思議なくらいリズムが良い。

「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね……」(ロウセイノリチョウハハクガクサイエイ、テンポウノマツネン、ワカクシテナヲコボウニツラネ…)

漢文調ゆえに漢字が多く、黙読するとどうしても読みにくい部分があるのは仕方がないが、何より音読したときの響きが心地良い。それに音読すると読んだあとに意味がついてくるように理解できる感覚がある。というか、音読という行為がこんなにも面白いことだと考えもしなかった。私は中島敦作品をきっかけに、作品自体だけでなく、音読という行為さえも再発見できたのだ。

かつて、形式段落ごとに番号を振り、自分の担当する音読箇所が近づいてくることを憂鬱に考えていた中学生の頃の僕に伝えてやりたい。目の前の文章は決して、お前をつまらない人間に育てるための退屈な教材ではない。むしろお前の可能性を見くびらずに、拡張さえしてくれる、とてつもなくパンクな文章なのだ、と。もちろん、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」そのものだった、かつての私が聞く耳を持てば、の話である。

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