著者:伊藤計劃 出版社:早川書房 出版年:2008年
普段あまりSFを読まない私が、SFと聞いて思い浮かべるものはあまり多くない。レイ・ブラッドベリやフィリップ・K・ディックとかの古典的な作品が多い。最近のSFについてはてんで知らない。せいぜい『三体』と『プロジェクト・ヘイル・メアリー』くらいである。それらは読書好きの間ではかなり人気で、というか人気すぎて読んでいないとモグリみたいな扱いを受けることさえある。「読書好きなんですよね?それならどうして『三体』読んでないんですか?」「『プロジェクト・ヘイル・メアリー』には読書する喜びが全部詰まっているから読んでないなんてもったいない!」私はそういう言葉を受けるたびに、そんな気持ちにならないために好きな本を読んでいるのに、と思いそれらを避けて生きてきた。こう書くと、今回はそれらについての書評に思われるかもしれないが、私の孤独な逃避行は今もまだ続いている。
その二作品は海外作品だったが、日本のSF作品にもその類のものがある。伊藤計劃『ハーモニー』である。日本のSF作品ランキングでは軒並み上位に名前を並べている、伝説級の作品だ。
伊藤計劃は、未完のもの含め三つの長編と短編群、評論などを残し、若くしてこの世を去った天才作家である、と紹介されることが多い。特に本作は彼の最高傑作であり、日本SFの金字塔と言われることも少なくない。私の周りにも愛読者は多く、その話を聞くたびに、なんとなくかっこいいなと思っていた。いつの日も、天才とか傑作という言葉に弱い。そうして私の数少ないSF読書体験が始まった。
『ハーモニー』の舞台は、暴力も貧困もなく、全員が健康に管理されている世界である。その世界に喫煙者や飲酒している者はいない。なぜならそれが有毒であるからである。のみならずカフェインを摂取するものもいない。有害だからである。
その世界では「健康」、「共感」、「調和」といった、本来疑いにくい価値が絶対化され、それに相反する概念は排他的とさえ思えるほどに排除される。当然、苦しんでいる個人や苦しみそのものは調整されるべきノイズとして捉えられる。健康は義務化され、誰もが長生きし、傷つけ合わないように生きる。けれどその高度な配慮は社会規範として徹底されて管理されている。抑圧とも見間違えるその環境は、まさしく「善意」によって支配された世界と言えよう。
その世界で自らの輪郭を必死に保とうとする、主人公トァンの物語である。彼女はその世界に明確に異を唱え、自らのアイデンティティを確保しようと試みる。しかしその「善意」は彼女に襲いかかる、それは絶対的に正しく、否定できない。
そんなトァンの前に現れるは、かつての親友ミァハの存在である。彼女はトァンにとって理解不能な危うい存在である。しかしトァンにとってミァハは希望だった。ときに希望の光はそれ自体が正しくなくともはっきりと光る。この二人のキャラクター小説としての側面だけ追うだけでも、この小説は面白い。
さてこの小説は、非常に独特な物語構造を取っている。それはHTMLタグがところどころに見られる点である。本来であれば段落やチャプターとして分けられるところにタグが付き、小説でありながらそれがコードであることが強調される。その俯瞰した視点は、一種の完璧な、そして冷酷な世界を映し出す写像に思える。その中で「善意」から抜け出すためにもがき苦しむ登場人物を覗き込む。彼らは完璧でない、けれどなんだ? 完璧とはなんだ。私たちは彼らに何をしてやれる? 「善意」に支配された世界に対する特効薬は「悪意」ではない。「悪意」で支配された世界において「善意」が効力を持たないように見える、それとは全く異なる理由で。
この書評を書きながら、『三体』や『プロジェクト・ヘイル・メアリー』に対するあのモヤモヤとした感じは、悪意でなく善意によってはびこり続けている、あの感じがすごく不自然に思えて、それが気持ち悪いのだと気づいた。そしてその感覚は間違ったものでも、独りよがりなものでなく、むしろ大切に抱えるべきものということにも気がついた。別に、その二作品を読んで、とんでもなく楽しんだっていい。けれど自分でもわからないくらい、何かに対して大きな抵抗を覚えるとき、その主観に身を任せることも、間違ったことではないのだ。
そうして私は書評を書き、その中で自らの自由意志を礼賛しながらも、あすけんにて栄養面を管理された食事を摂取し、喫煙やカフェインを避け、そしてこれを読むあなたに、「善意」でこの小説を薦める。結局私も、この世界、構造からは逃げられないのである。

書き手:高橋龍二









